「信長公記」読了

830日から「麒麟がくる」の放送が再開される。それへ向けて「信長公記」を読み進めた。後半ともなると、信長は自ら出陣するよりも家臣となった武将を各地に出陣させることが多くなる。羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、前田利家、息子たちなどの名前が頻出する。中でも秀吉が出陣した因幡(鳥取)攻めは悲惨である。兵糧攻めの結果、城内に籠城した因幡側は多くの餓死者を出した。中でも、秀吉勢に討たれた味方の人肉を喰って飢えを凌いだ様子が記されていることは想像を絶する(討ち落とされたひとつの首に数人が群がったとの記載もある)。これに対し、信長自身は安土城を拠点として活動、安土城での相撲大会などの様子や安土城の豪華絢爛たる様子も詳述されている。安土城の絵図が残っていないのが返す返すも残念である。また、各地で鷹狩りも頻繁に行っている。現代で言えば総理大臣の息抜きのゴルフのような感覚であろうか。いやいや、鷹狩りを通じて支配地域の様子をチェックしていたのかもしれない。

 

1582年、明智光秀は、信長の命を受け、備中高松城(岡山)を攻めている羽柴秀吉応援のため坂本城から出陣、丹波亀山を経て京都愛宕山で参詣した。だが、その後行先の変更を側近にのみ伝え、突然上洛し本能寺(現在の本能寺の場所とは多少異なる)に向かう。ドラマなどではこの場面は、「敵は本能寺にあり!」と描かれる。わずか100名ほどの警護人しかいなかった信長は、最期の姿を見せたくないためか、御殿の奥に退避し自害する。本能寺が焼き払われたためか、遺骸は見つからなかったと言われている。一方、すでに家督を譲られていた息子信忠は本能寺の近くの妙覚寺に滞在していたが、二条新御所に籠城した。本能寺を攻め落とした明智軍は直ちに新御所にも攻め入った。逃げられぬと悟った信忠も同じく自害した。

 

これらの歴史に残る謀反を本著の作者である信長の家臣太田牛一は、明智光秀を非難するわけでもなく極めて淡々と記している。このあたりが、感情に流されず事実を淡々と記録した「信長公記」の歴史書としての信頼性に繋がっているように思う。

 

なお、光秀は坂本城帰陣前に勢多城の山岡景隆に協力を求めたが、山岡は信長への恩を理由に断った。この時山岡は、勢多橋を焼き払い明智軍の近江への進軍を食い止めた。大津市の打出浜に「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑がある。これは、光秀の死を知った光秀娘婿の明智秀満(左馬之助)が安土城から坂本城へ行く際、敵に追われて行き場を失い琵琶湖を馬で渡って帰城したとの伝説に基づくものだが、最近の研究で、これは勢多橋での戦いをモチーフにした言い伝えではないかとの説も発表されている。

 

ところで、明智謀反の理由(動機)は今でも謎である。一時は信長に恥をかかされたことによる怨恨説が有力であったようだが(筆者の学生時代はそう習ったような気がする)、新たな資料の発見もあり、現在も様々な説があるがまだまだ謎は多い。さて、大河ドラマではどのように描くのか。楽しみである。怨恨説が単純で最も分かりやすいが、現在この説は否定されており視聴者は納得しないだろう。他の説(黒幕存在説など)は人間関係や人脈などが複雑になりわかりにくく、かつ光秀主役のドラマとしてはどうかと気になる。信長の変心と(朝廷への?)横暴を咎めるため、というのがいかにもNHKらしいと思うが、さてどうであろう。