「信長公記」を読む

 

 

何十年ぶりかでNHK大河ドラマを見ている。「麒麟がくる」である。ただし、歴史書や古文書をベースにしているが、あくまでもフィクションである。主役は明智光秀だが、裏の主役ともいえるのが織田信長であろう(ちなみに、小谷城山麓にある小谷城戦国歴史資料館に展示の古文書には、織田ではなく小田と記載があった記憶がある)。その関係で、「信長公記」を読み始めた。もちろん現代語訳である。著者は信長の家臣であった太田牛一である。太田は、信長の死後、豊臣秀吉、秀頼の家臣ともなっている。まだ半分読んだところである。

 

織田信長の父である織田信秀が、尾張の国の南部を支配していた守護代織田達勝の家中の者であったとの記述から始まり、本能寺の変のあと、徳川家康が堺から取るものも取りあえず退去した(例の伊賀越えである)との記述で終わる。やはりおもしろいのは、信長活動の舞台に滋賀県(近江)が数多く登場することである。例えば瀬田橋(勢多橋)を架けることを山岡景隆(勢多城城主)、木村高重に命じて作らせ、朽木の山中から木材を伐り出し1575712日に立柱の儀式を執り行い、完成後の1012日頃に自ら検分したとの記述がある(立派な橋だとの記載もある)。また、近江八幡市の安土の常楽寺(現在は廃寺)で相撲大会を主催し、勝者を家臣にしたとの記録もある。もちろん比叡山焼き討ちのほか、百済寺焼き討ち、佐和山城、観音寺城、千草峠(鈴鹿)での狙撃、浅井長政を討った小谷城、姉川の決戦、大船を建造したびたび志那(草津)から琵琶湖を渡り高島や坂本方面に行ったり、あるいは上洛したことなどなど滋賀県ゆかりの出来事が満載である。改めて滋賀県が歴史の宝庫であることが実感できる。

 

一方、信長は数々の戦を行っており、逐一戦果が記録されている。例えば○○相手に戦を挑み落城、破壊させたこと、それに伴い何百・何千という足軽や武将を討ち取り、首をはね自陣に運び込み、首実検したこと。敗走する兵などを追い、女・男・子ども構わず切り殺したこと。それとともに、稲作を薙ぎ払う、村を焼き払ったことなどなどである。また、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政を討った際は、漆で塗り固め金泥で彩色した彼らの首を膳に据え、これを肴にして酒宴を催し遊び興じたとの記述もある。なんともおぞましく野蛮な行為である。

 

これらの記述を読むと、いわゆる戦国時代がとんでもない乱世であったことが読み取れる。戦に巻き込まれ、時には戦闘員として最前線に動員される民・百姓が平和を願うのも道理である(中には竹やりで闘ったとの記述もある)。これらの背景を考えると今回の大河ドラマのタイトル「麒麟がくる」が何となく理解できる気がしてきた。しかし、それにしても著者の太田牛一という人、こんな伝記をよく物にしたものである。特に、各戦に出陣した武将たち、また討ち取った主たる武将たちの名前をことごとく記しているのである。もちろん思い違いや誤りはあるであろうが、驚くべきことである。織田信長は特に好きな人物ではないが、記録文学として面白いというのが筆者の評価である。